小諸にて、しなの鉄道を小海線に乗り換える。小海線は八ヶ岳高原線とも言うようになったらしい。何時からのことだろう。昨日は佐久平までやってきた。
中山道も小諸からは国道18号線と別れるようだが、何処を通っているのかまた見失ってしまった。
私が初めて堀辰雄に出遭ったのは、高校の現代国語の教科書。随筆信濃路の中の一節、辛夷の花だったと思う。これも雪融けのこの辺りの路線車窓からの眺めだったようだ。
----青空文庫より----
「むかうの山に辛夷の花がさいてゐるとさ。ちよつと見たいものだね。」
「あら、あれをごらんにならなかつたの。」妻はいかにもうれしくつてしやうがないやうに僕の顔を見つめた。
「あんなにいくつも咲いてゐたのに。……」
「嘘をいへ。」こんどは僕がいかにも不平さうな顔をした。
「わたしなんぞは、いくら本を読んでゐたつて、いま、どんな景色で、どんな花がさいてゐるかぐらゐはちやんと知つてゐてよ。……」
「何、まぐれあたりに見えたのさ。僕はずつと木曾川の方ばかり見てゐたんだもの。川の方には……」
「ほら、あそこに一本。」妻が急に僕をさへぎつて山のはうを指した。
「どこに?」僕はしかし其処には、さう言はれてみて、やつと何か白つぽいものを、ちらりと認めたやうな気がしただけだつた。
「いまのが辛夷の花かなあ?」僕はうつけたやうに答へた。
「しやうのない方ねえ。」妻はなんだかすつかり得意さうだつた。「いいわ。また、すぐ見つけてあげるわ。」
が、もうその花さいた木々はなかなか見あたらないらしかつた。
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画像は辛夷の花が所蔵になかったので、雰囲気だけ。箱根登山鉄道からの車窓だ。