norimakihayateの日記

バーチャル旅日記からスタート。現在は私の国内旅行史に特化しています。

2004年一日旅 相模線 3

 駅のホームを降りたつと、広々とひろがる水田の向こう側に少し小高い丘が続いているのが見える。小学生の頃、社会か理科の授業で習った相模川河岸段丘だ。

 実は、小学1年の夏休みに私は九州の小都会から関東に引っ越してきたのだが、最初に棲んだ場所がこの河岸段丘の丘の上の界隈だった。小学校の低学年だったので家からあまり遠くまでは行けなかったが、一度か二度、この河岸段丘の上から下の田圃まで降りてみたことがある。

 九州から越してきて初めて見たものに、赤とんぼとアメリカザリガニがあった。共に九州の小都会では見ることが無かったのだが、この入谷付近の田園には夏から秋に掛けて幾らでもみることが出来た。

  駅の周りではずっと蝉が鳴いていて、夏草の匂いがむっとむせ返るようで、遥か昔の懐かしの夏を思い起こさせた。

 

2004年一日旅 相模線 2

 相模線は海老名駅から乗ることにして、取り敢えず二つ目の相武台下という駅まで切符を買う。最初の停車駅の入谷という駅でも降りてみるか迷っていた。無人駅だというのは知っていて駅舎はないので炎天下で日差しを除けるものがないのではと不安だったのだが、ホームに屋根付きの待合所があるのが分かったので取り敢えず降りてみることにする。

 やはり無人駅で駅舎や改札などはない。代わりに乗車駅証明書というものの発券機が置いてあって、それを受け取って電車内で車掌に見せて運賃を支払うという方式になっていることが分かる。

 折角改札が無い駅なので、ホームからちょっと出て駅の周りを見学してみることにした。妻はホームの日陰でスケッチなどをしている。

 

2004年一日旅 相模線

 2004年の夏休みは特に大きな旅行には出掛けなかったので、一日旅で相模線に乗ってみることにした。以前に紹介したユーミンの歌の中に出て来る路線で、殆ど乗ったことが無かったので一度ぶらりと乗ってみたいと思っていたのと、ちょうどこの年に映画で「下妻物語」というのが流行ったせいもある。茨城県下妻市が舞台で、ロリータファッションが趣味の深田恭子が演じる女の子と、土屋アンナが演じるヤンキー娘との話だ。

 下妻物語は実際には観ていなくて、映画の宣伝をちらっと見ただけなのだが、この映画に出て来る雰囲気が相模線沿線の雰囲気にとても似ている気がして、日本の原風景のようなものを体験してみたかったのだ。

 

2004年一日旅 市立女子高跡

 90年代後半、数年に亘ってG県I市に単身赴任していた。その間毎朝のように市内を自転車で散策していた。その時見つけて興味を持った建物の一つに市立女子高跡というのがあった。外国人が建てたミッションスクールだったようだが、円形校舎という独特の形をした校舎が魅力的で、単身赴任時代はずっと廃校のままで荒れ朽ち果てようとしていてもったいないとずっと思っていた。写真も撮ったのだが、建物の外側からだけだった。

 2000年の後、時々出張で出掛ける際に立ち寄ってみたら、いつの間にか「絣の郷」という郷土資料館のようなものに変わっていた。建物が残されたのは喜ばしいことだったが、ある種の古き良き懐かしさは失われてしまったような気がした。

 

2004年一日旅 E市界隈

 2004年6月、梅雨の合間を縫って結婚当初暫く棲んでいたE市を散策してみることにした。

 結婚したのは就職して4年目だったが、同期の仲間は殆どが結婚すると会社の社宅に入っていた。しかし社則で夫婦共稼ぎだと社宅には入れない規則があったので、二階建て長屋のアパートに住むことになったのだが、そこを訪れてみると建物そのものが無くなって一軒家二棟に建て替わっていた。

 近くに似たようなアパートがあってつい懐かしくて写真を撮ってしまった。アパートの向かいは大手化粧品メーカーの厚生施設になっていたが、そこも無くなって大型マンションに建て替わっていた。

 散歩でよく出掛けた国分寺跡の広場も寄ってみたが、昔と同じように子供を遊ばせる若夫婦の姿が見られる。小学生の社会科の事業の時に全国に国分寺というのがあって、E市のもその一つだと教えられたのを思い出す。結婚当初の頃は駅前からずっと水田が広がっていたが、今ではもう殆ど見られなくなってしまった。E市の水田が南北碁盤の目のようになっているのも奈良時代平安時代の条里制、条坊制の名残なのだと教えられたのも小学校の社会科でのことだった。

 

2004年一日旅 高松山自然公園

 この年のゴールデンウィークは二泊三日で四国旅行をしたのだが、連休明けの次の週末に高松山自然公園という場所にドライブに出掛けている。最初にこの場所を発見したのは大学生の頃だったと思うが、あまり整備はされていなかったが天皇行幸跡のある由緒ある場所ではあるらしかった。

 野生のアザミが真っ盛りのようだったが、この時期には参道のようになった長い石段にサツキが咲き誇っている。また藤棚のフジの周りを大きなクマンバチが飛ぶ季節にもなっている。

 急な崖のようになった尾根の道がずっと続いていて市街地が遠景で見渡せる。崖の下にはこんなところに広場がと思う様な茂みの中にぽっかりと円形の運動場がある。尾根道の終わる辺りには小野小町を祀っている小町神社というのがあって、この時はそこまでは行かなかったが、平家の落人が棲んでいた時期があるという伝え話も残っていて、何だか怨念が籠っていそうな不気味な場所でもある。

 

2003年一年旅 谷戸山公園 3

 前にも書いているが、幼年期の頃で谷戸山公園が出来る前、この地の近くに棲んでいた。その頃、通っていた個人医院が公園敷地の傍にあったのでそこにも寄ってみた。

 何もなかった葦の野山が開拓されて平屋の分譲住宅が作られ始めた頃で、その一角にその医院はあった。児の旧字である「兒」という漢字を使って内科と小児科を扱うT内兒科と書かれた看板が掛かっていて、蔦の葉に絡まれたコンクリート打ちっ放しの高い塀の奥に診療室のある洋館で、その頃好きだった江戸川乱歩の小説に出てきそうな謎の洋館という感じで、そこに入る時にはゾクゾクする思いを感じたのを覚えている。

 2010年の頃、再度訪れたら屋敷毎無くなっていて更地になってしまっていた。