norimakihayateの日記

バーチャル旅日記からスタート。現在は私の国内旅行史に特化しています。

グラバー邸への道

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 大浦天主堂を見学した後、天主堂のすぐ右だったか左だったかに斜面をずっと登っていく小路があって、それに沿ってグラバー邸へ向かう。どんどん標高が高くなって天主堂の尖塔が下に見えるぐらいになると、遠く長崎湾の景色が見えてくる。

 私が結婚した時、仲人を引き受けてくれた方は素人ではあったが油絵を長くやっている人だった。私自身も学生時代ぐらいまでは油絵を趣味にしていたがせいぜいが10号ぐらいまでの大きさだが、その方は100号とか200号とか大きなキャンバスに描かれていた。

 娘さんが長崎の材木屋に嫁がれてその家を訪ねた時に描かれたものらしかったが、グラバー邸へ昇っていく坂道を描かれたものを見せて貰った記憶がある。確かに絵になる坂道だったと思う。

 

大浦天主堂

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 ブログをやるようになって、その記事に挙げる場所をネットのグーグル地図のストリートビューなどを観ていて驚くことがある。その一つが大浦天主堂だった。私の記憶、そして当時の写真と、グーグルのストリートビューに挙げられている大浦天主堂の外壁の色が全然違うのだ。勿論、最初に訪れた時と今とでは半世紀に近いぐらいの数十年の開きがあるので無理もない。当時の写真では観光地で極当たり前のようにあった写真機用のカラーフィルムのフジカラーとかコニカカラーの様な看板も今は一切無い。ある意味でカメラ用フィルムの宣伝看板は、時代を象徴するものなのかもしれない。今日の最初の画像は当時訪れた時に撮ったものだが、次のはネットから借用したのだが、2005年のものだそうだ。

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最初の目的地 大浦天主堂

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 長崎を訪れた次の年に北海道旅行をして最初に函館を訪れている。長崎と函館はとても良く似ていて記憶の中ではよくごっちゃになる。共に路面電車が走っていて共に坂が多い街だからだろう。

 夜行急行、雲仙に乗って長崎駅に辿り着いたのは早朝だった。長崎に行ったら、長崎チャンポンか皿饂飩を食べたいとずっと思っていて、朝食にチャンポンを食べたのかもしれないが、よくよく考えると早朝からそんな店が開いている筈もなく、駅前で菓子パンと牛乳ぐらいでそそくさと朝食にしたような気がする。おそらく駅から少し歩いてチャンポンの店を見つけて食事をしたのはお昼だったような気がする。

 とにかく朝食を駅周辺で採った後、路面電車を使って大浦天主堂を目指した筈だ。

 今日の画像は当時のアルバムに残って貼ってあった大浦天主堂のものと思われる印刷物だ。大浦天主堂は観光地ではあるが、入場料を取っていたとは思えない。しかしこの一枚はいかにも入場券のような形をしている。

 

長崎 北九州への旅

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 大学二年の秋にした東北旅行の次に旅に出たのは、約一年後の大学三年の秋、長崎、北九州への旅だった。

 大学二年から三年に掛けての間に教習所に通い、運転免許を取得している。つまりその間のアルバイト代はこの為に費やされていて、旅行資金は工面出来なかったせいだろう。

 大学生になってからの大きな旅としては二番目となるものとして行く先に選んだのは長崎だった。どうしても行ってみたい場所の一つで、そのついでに自分達家族の故郷でもあり、親戚もまだ何家族か居た北九州へついでに寄ってみようと考えたのだった。

 既に新幹線は博多までは開通していた時代だったが、学生の身分で新幹線に乗るのは贅沢すぎ、この時も周遊券を買って極力急行までで済ませる旅行として計画した。資料は残っていないが、おそらく新大阪までは急行の銀河を使い、新大阪から長崎までは当時の切符が残っていた夜行急行の雲仙を使ったようだ。

 

左沢(あてらさわ)線の気まま旅

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 帰りの奥羽本線はずっと各駅停車での旅だったようだ。山形を通過する一つ手前の北山形でローカル線の左沢線に接続している事に気付き、寄道をして、終点の左沢まで行ってみることにした。左沢と書いて「あてらさわ」と読むことはずっと前から知っていた。中学生の頃、ラジオの深夜放送を聴くことが一部で流行始めていて、私はオールナイトニッポン派だったが、他にパックインミュージック派とセイヤング派が居た。友だちの一人がパックインミュージック派で、金曜が面白いから是非聴いてみろと薦められて聴いてみたのが有名な那智・チャコ金曜パックだった。その中で山形に棲むリスナーがこの左沢線で同じ電車に乗る女学生に恋心を抱くという話の投稿があって、その話の記憶からどんな所なのか観てみたいと思ったのだ。

 片道1時間弱で終点まで行って一旦降りてから次の電車で戻ってくるというだけの時間的余裕しかなかった。車窓から見る景色もどうというほどの景色では無かったが、何故か最上川を渡る時には感動したのを憶えている。

 今日、偶々別の用で昔の古い日記を調べていたら、上記左沢線の投稿の中の一節を書き移した部分が出てきた。誰かの文章の引用なのかもしれないが朗々とした文章だった。

 「陽は出で、陽は入り、またその出でし処に歩みゆくなり。夜は去り、夜は来る。しかれども大地はとこしえに保つなり」

 こうして私の初の東北の旅路は終わったのだった。家に辿り着いたのは、家族皆が寝静まった夜中だったと日記には書かれていた。

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特急の通過待ち

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 東北からの帰り道は奥羽本線を使うことになる。横手という駅で東北本線の方へ向かう北上線と分岐するのだが、その横手の次の駅、柳田で特急通過待ちの為、ホームで待たされることになる。

 ホーム直後の防風林の向こう側は延々と田圃が広がっていて他には何もないような田舎の駅だった。空にはトンビが舞っていて、ピーヒョロロという鳴き声をたてていたのを憶えている。次の写真は誰かに撮って貰ったものではなく、おそらくセルフタイマーを使って自分で撮ったものだと思われる。こんな古い車両に自分が実際に乗っていたのだと思うと、今となっては驚く他はない。

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ピカソ シルヴェットとの邂逅

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 偶々ガイドブックで見つけた平野政吉美術館だったが、藤田嗣治など有名な画家の作品を幾つも観た後、ギャラリーの最後の階段手前でとても美しい女性の横顔の油絵を見つける。その絵に見入っていると初老の紳士が後ろから近付いてきて、ピカソのシルヴェットの肖像画だと教えてくれた。ピカソはこのシルヴェットという金髪の女性の肖像画を何枚も描いていて、その時みたのは具象画だったが、抽象画もあって何とそのうちの一枚は私が中学生時代に美術の教科書にも載せられていた事を後になって気づいた。

 その初老の紳士は当時この美術館の館長だったらしい平野政吉氏本人だったようだ。今はこの美術館は自治体に寄贈されたらしく、公立の美術館に変わっている。その時観たシルヴェットの絵が無いか何度もグーグルなどで検索してみたが、見つけることが出来なかった。今日の画像は同じシルヴェットの肖像だが、千葉のほうにある別の美術館所蔵の別の絵である。五年前に書いたブログでは、抽象画の方のシルヴェットの肖像を紹介している。