昨日は焼津手前3kmの地点まで到達した。
焼津というと思い出すのは、そこに棲んでいた父の戦友だ。戦争について多くは語
らなかった父だが、終戦時は船に乗っていたという。父はパーサー事務長を務め、そ
の戦友は機関長だったらしい。軍艦ではなかったようだが、終戦直前のその頃はもう
軍艦も商用船も無かった筈だ。
無事、生き残った二人はその後も付き合いを続け、お互いの子供等の冠婚葬祭には
必ずお互いに出掛けていっていた。もう殆ど親戚のようなものだった。
どちらが先に逝ってもおかしくない歳になって、戦友のほうが先に亡くなった。焼
津まで新幹線と在来線を使って母と二人で通夜に行くという。長く歩くのも出来ない
位の身体で無謀だと思い、車に乗せて連れていったのだった。高速だけで2時間は掛
かったようだ。読経の間の40分ほど居るのに往復で6時間掛けたドライブだった。
その父も翌年後を追った。
焼津のその戦友のお宅には何度か訪れている。古くは子供の頃の海水浴だ。何処の
海岸に行ったのかも最早定かではない。
車を運転するようになって一度父だけを乗せて訪ねていったことがある。焼津は漁
師の街である。私が太刀魚が大好きなのを知っていて、わざわざその日獲れた太刀魚
を買いに行ってくれた。奥さまが三枚におろした身をフライに揚げて出してくれた。
フライで食べるのは初めてで、大好きな魚なのに、今までで一番美味しい味だった。
焼津というと、だから最初に思い出すのは太刀魚のフライである。