バリの観光ホテル特有の伝統芸能ショーは、このノボテル・ブノアホテルでも同様で、ステージの設けられたメインダイニング前の広場では毎日何がしらかのショーが繰り広げられていた。
遅くに到着した最初の夜は別として、二日目に早速ディナーショーを予約した。その夜の演目はインドネシアンナイトと称して、ケチャックダンス、レゴンダンス、バロンダンスなどのハイライト部分を繋げたような踊りのショーで、専属のガムラン楽団が幻想的な音色を奏でていた。
この年の夏の一番の目的が息子の泳ぎということもあって、私と妻が代わる代わる付きっきりで息子の水泳につきっきりになっていたこともあって、娘のほうは自分で勝手に色々楽しんでいたようだ。宿泊ルームに近いプールサイドには、三つ編みをしてくれる女性たちのサービスもあって、何時の間にか娘もそれを愉しんでいたようだ。
三つ編みサービスの他、このプールサイドではマッサージも行っていたようで、プールサイドはこうしたサービスを受けながらのんびりと過ごすという雰囲気で溢れていた。マッサージも受けたと思うのだが、このプールサイドだったか、ビーチのほうだったか、はてはフィットネスセンターだったかははっきりとした記憶がない。
バリへの旅は四度目という事もあって、観光という意味合いは大分薄れていた。この年の一番の目的は下の息子が泳げるようになる為の特訓だった。幸い宿泊ルームに近い側のプールは両サイドに大きな幅の階段上になった棚のような部分があって、少しずつ水深を大きくしながら泳ぐ練習が出来るのだった。
この年の秋に、絵画や工芸、写真など何でも展示していい持寄りの展示会が地元で開催されていて、下の写真はその際に「泳ぎを覚えた夏」という題で出品したものだ。
ノボテルホテルはヌサドゥア地区の繁華街というと大袈裟だが、街中にあって、道路を跨いで東西二つのサイトに分かれていた。車が結構通る道路なので、ホテルの従業員である警備員が24時間立って道路を横切る宿泊客を案内していた。東側がプライベートビーチに面したサイトでエントランスのロビーやメインダイニング、メインのプールがある方、西側は主に宿泊用の棟が並び、こちらにも専用のプールとダイニングがあった。我々は当初、西側のテニスコートのすぐ傍の二階の部屋二室に案内されたのだが、シャワーの調子が悪く、二日目から同じ西側だが別の二部屋に移らせて貰うことになった。道路の傍ではあるものの、宿泊棟から道路までは屋根の付いた吹き曝しの廊下が暫く続いて椰子の樹に囲まれていて、街の喧騒からは隔絶されていた。
ホテルのエントランスロビーには何故かサルバトール・ダリ作の巨人のようなオブジェがあった。はっきりと記憶していないのだが、世界に三体しかないうちの一つだと書いてあった気がする。
またまた危うくブログ更新を失念するところだった。
1997年のプーケットの続いて1998年のバカンスとして選んだのは、四度目となるインドネシア、バリ島だった。1993年からタイとインドネシア・バリを交互に旅してきた。この年はずっと続いていた円高基調から円が下落していたのだが、インドネシア・ルピアはそれを上回って下落していたので、レートとしては比較的良かった。
ただ、この年はインドネシアで暴動事件があって、予約を入れた5月の時点では、日本国政府からインドネシアへの渡航取止め要請が出ていたと記憶している。バリ島は観光で成り立っている場所だし、民族も宗教もジャカルタとは異なっていることからいずれ緩和措置は取られるだろうと、それほど心配はしていなかった。そして旅行催行の7月頃には、日本からバリへ向かう便はそれまでのジャカルタ経由からバリ直行で、その後ジャカルタへ向かう経路へと変更されて、余計に便利になってきていた。