norimakihayateの日記

バーチャル旅日記からスタート。現在は私の国内旅行史に特化しています。

ビンタンバリホテルのコテージ

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 実はバリ島のバカンスは全部で四度行っている。なので、記憶だけで書いているとごっちゃになって、勘違いも多くなる。昨年末に最初のバリ滞在のことを書いていて、豊穣の女神デヴィスリの木彫り像を買い損ねて、帰りの空港で代りにレゴンダンスの踊り子の像を買ったと書いてしまったが、今になって調べてみたら、今書いている1994年のビンタンバリホテルの時だったことがつい最近判った。

 ビンタンバリホテルの部屋について書こうとしていて、やはり1996年の時の部屋と勘違いしていたことが、つい最近判った。1994年のビンタンバリホテルで割り当てられたのは、一棟で2家族が入れる一階建のコテージだった。前年の1993年までは一部屋でツインかダブルベッドの部屋にエキストラベッドを入れて貰ってという形だったのだが、1994年では7歳の娘と2歳の息子という風に子供も成長したので、隣り合った続き部屋2部屋にして貰っている。海外では部屋と部屋の間に施錠出来るドアが付いている続き部屋というのがよくあるものだが、この時は行き来出来るドアはなかった代わりにどちらも中庭に面したフレンチ扉の付いたベランダがあって、我々夫婦の部屋と子供達の部屋を庭を介して行き来することが出来た。7歳、2歳の子供達だけで一部屋というのは日本の旅行事情からすると何とも贅沢な部屋割りだが、この当時の海外旅行ツアーでは1部屋でも2部屋でも大して全体の額は変りなかったようだ。

 

クタ・ビーチの夕陽

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 前にも書いたが、クタはバリ島の西側にあって夕陽の名所と言われている。ホテルのプールを抜けて出たビーチが夕陽が見えるプライベートビーチになっていた、筈だ。クタのビーチのサンセットはわざわざタクシーで連れていって貰った記憶がずっとあった。なので、タクシーで行ったのはバリ初めての1991年のヌサドゥアビーチ、プトゥリバリホテルの時だったのだろう。1994年のビンタンバリホテルの時は毎日のようにこの夕陽を観に行った憶えがある。

 

プール上のステージ

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 ビンタンバリホテルの一番の特色は、ホテルのメインプールに半島状に設えられたステージではないかと思う。細長い瓢箪型のプールの中央部分にプールサイドから橋が渡されていて、プールに突き出す形でバリ特有の彫り物の飾りが施された四角いステージが設けられているのだ。夜になると、そこで様々なバリの伝統的舞踊などが演じられ、宿泊客たちはプールサイドからその演技を鑑賞するという形になっていたのだった。最初にホテルに到着した後の最初のホテル内の散策の際には、そんな事は判らず何の為にこんな形のものがプールにあるのだろうかと不思議に思ったのだった。

 

ビンタンバリホテル

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 1994年のバリ旅行の宿泊先はクタという街中にあるビンタンバリホテルだった。クタはバリ島の西側にあってクタ海岸は夕陽の名所になっている。ビンタンバリホテルは勿論プライベートビーチを持つ海に面したロケーションなのだが、バリの街中に立っている。入口はバリ特有の尖った対称形の二本の三角形の門の奥にある。門の外は車や人通りが激しい地区だが、門から建物まではかなりの距離がある為に、ホテルの中に居ると門の外の雑踏からは完全に解放されている。街まですぐ行ける所なのに街の喧騒からは隔離されている不思議な空間だった。

 

バリのビール

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 バリ島へはインドネシアの首都ジャカルタで乗換えで、そこからはインドネシア国営のガルーダ・インドネシア航空になる。1990年に初めてバリを訪れた際に既に乗ったことがある。

 インドネシアの航空会社では、頼むビールはその国産のものを尊重して頼むことにしている。ガルーダの場合はビンタンビールだ。ちょうどその年に泊まるホテルの名前もビンタン・バリホテルだった。

 ビンタンというのは「星の」という意味だったように記憶している。ビンタンがどこから来ているのか不明だが、インドネシアにはシンガポールに近い側にビンタン島というバリ島にも匹敵する有数の観光名所がある。後年そこも訪れることになるのだが、それは先の話。

 

成田からの出発

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 時間は少し戻るのだが、今日の画像は成田からの出発前。後ろに写っている背景にモノレールがあるので第二ターミナルビルだったことが分かる。まだこの頃は第二ターミナルビルが出来たばかりで、設備のあれこれが新品のピカピカだった記憶がある。キッズルームが設けられていて、子供達にも好評だった。前年に使ったタイ航空も第二だった筈。主要外国航路は第一ターミナルで、第二は日本の航空会社とマイナーな海外航空だったように記憶している。こんなところにも日本航空業界の力の入れようが感じられる。

 

初めての日本航空海外便

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 1994年の海外バカンス旅行では、前にも触れたが成田・ジャカルタ間は日本航空便が使われた。プラザ合意以降、どんどん円高が進んで海外旅行しやすくなってきて、日本人の海外渡航者が増える中、JAL、ANAの二大国内航空会社も指をくわえている訳にはゆかず、積極的に日本人観光客の取り込みに大攻勢を掛けたせいではないかと思われる。エイビーロードなどに乗る格安海外ツアーで日本の航空会社を使ったツアーなど観た事がなかったのが、次第にそういうものも増えてきていたように思う。今日の最初の画像は、この時のJAL機内誌に載っていた漫画のコピー。

 旅行の楽しみのひとつに機内での酒類のサービスがあるが、この年も事前に禁酒をしてまで体調を整えて乗込んでいるので、しょっぱなの食事前の軽いスナックの時からマンハッタンを頼んでいる。マンハッタンは当時よく呑んでいたカクテルで、確かウィスキーとブランデーを合わせたものだったと思う。ちなみに、このマンハッタンにパセリを一房載せたものをセントラルパークと称していた。洒落である。食事中は赤ワインをお代りまでして頼んで、食後には意地でも外国製のと頼んでオーストラリア産のビールを頼んでいる。その後最後のしめにシーバスのロックを頼んでいたようだ。

 

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